菊が風邪を引いた。


そう聞いたのでいろいろとお見舞いの品を持って菊の家まで行くと、ドアの向こうからはがひょこりと顔を出した。
菊の親戚であるは何かと菊にお世話になっている分、彼女も菊を手助けしているとの事。
やあ、と気軽に挨拶すると、どーも、と気軽に挨拶が返ってきた。そんな挨拶を交わしているにもかかわらず、菊のためにおかゆを作る手は休まらない。
こんな臨機応変な彼女に、俺は恋をしていた。


布団に横たわる菊の元へ移動すると、うもたげに開かれたまぶたの下から黒い眼が覗いた。微かに潤んだ瞳と紅潮した顔。
息も上がっていてかなり辛そうだ。俺がもし一人だったら耐えられないだろう。


「アルフレッドさん、わざわざお見舞い、ありがとうございます」
息の上がった途切れ途切れな声でお礼を言う菊。
「いいんだよ!大事な友達の一大事なんだ、こういうときに協力ってもんが必要だと思ってさ!」
みずみずしい、だったか?日本語で、そんな感じの言葉があったじゃないか。そう言うと、おかゆができたのか、鍋を持ってこっちに歩いてくるが「水臭い、でしょ」と俺の言葉を修正する。


「はい菊、おかゆできたから食べて。」
「ありがとう、

俺の間に割って入ったは菊の身体を支えて起きるのを手伝う。重そうに身体を起こした菊の額には汗が滲んでいた。
すかさずが持ってきた冷たい布巾で汗をぬぐってやった。短く切りそろえられた前髪がぱらりと広がる。
「はい、ちょっと布巾持ってて」
目を見ずに渡された布巾の冷たさに身体の芯が震える。スプーンでおかゆを掬って、ふうと息をかけた。菊の口にそのまま運んで行く。
「はい菊、あーん」
「あ、はい ………あー」
声は出さなくても良いというのに。熱で浮かされて脳細胞まで破壊されてしまったのだろうか。
俺はただその光景を羨望の瞳で眺めるだけだった。

菊が黙って食べるところを、じっとみつめている。献身的に付き添う姿はまるで母親や彼女の様。思わず見舞いのフルーツをみせびらかすように膝の上に置いた。
こちらには見向きもしない。菊は何か言いたそうに俺とを交互に見てくる。



「…あ、!お、お見舞いの果物持って来たぞ!」
「ああ、ありがとね。そこにおいといて」

すぐに返事を返してくれたものの、俺のほうには見向きもしない。取りあえずその指示に従って、膝の隣にメロンを置いた。
ごろん、と転がってビニールごと菊の頭あたりまで進行する。菊は「ありがとうございます」と頭まで下げてくれた。

そうじゃない。俺が欲しいのは、菊のお礼でもなく、見返りでもなく、彼女の言葉なんだ。


今はそんなことを言っている場合じゃないこともよく理解している。空気を読めない俺だって、一応把握できるものだってある。

俺の掌の冷たい布巾は、手の熱を吸い取ってぬるまっこくなっていた。
これ、とに渡すと、ん、と一言言ってまたそれで菊の額を拭く。ああ、彼の俺に対しての視線が哀れみの対象になっている。
痛々しいのとさびしいので、思わず身じろいだ。俺に背を向けているは全くそれに気づく気配も無く、食べ終わったおかゆの鍋を片付けようと立ち上がっていた。



「アル、これ洗ってくるから菊の氷枕代えといて。お願いね」
「あ、ああ」



俺は風邪を引いたことが無いので、どんな風に苦しいのか分からない。菊の様に顔が赤くなって体温が上昇して、頭がぐらぐらするのだろうか。
今みたいなおかゆを食べることになるのだろうか。俺が風邪を引いたら誰か見舞いに来てくれる?


は、菊にしたみたいに、俺にも優しく看病する?


「あの………アルフレッドさん?」
「………ごめん菊、氷枕を代えたら少し席を開けるよ」

そう言って早急に氷枕を代え、ゆるゆるになっていたぬるい氷枕を持って部屋を出てキッチンの方へ向かった。
丁度冷蔵庫の陰になっていて見えない。水で鍋を洗う音だけが彼女の存在を知らせてくれる。そろそろと足音を立てないようにに近づいた。




「っわ、」


小さな背中を捕らえ、腹に手を回して後ろから抱きしめる。首元に顔を埋めて、すうと深く息を吸い込んだ。の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
は少し困惑したように身じろいで、俺が離す気が無いのだと分かってから抵抗するのをやめた。
「…………なに?どうしたの」
少し上ずった声でそう聞く。もう一度ぎゅっと強く締め付けて、ぽつりと呟いた。




「ねぇ、風邪って、………どうやったら引けるんだい」





アル、と名前を呼びかけた唇を引き寄せてそっと口付ける。優しく下唇を食んで、額をこつりと合わせた。
ほんのり赤く染まったの頬を撫でてやると、は「あ…き、菊がほら、待ってるから、」と手を解こうとする。
「嫌だよ」ぐっと力を込めて腕の中にを束縛した。ふっと耳に息をかけ、耳朶を甘噛みすると、びくりと震え上がる身体。
頬を摺り寄せて、菊の熱よりも熱いだろう想いを吐露する。


「嫌なんだよ。が菊ばっかり見てるの。俺だって見て欲しいんだぞ」
「子供じゃないんだから、それぐらい節操持ってよ」
「やだ!の馬鹿!どうせ今日は菊が風邪だからって夜も相手してくれな「うわあああああああああ!!黙れ!声でかい!!!」


ものすごく焦ってわたわたと手の中で踊る。思い通りに身体が動かない分必死なのが少し面白かった。
ぶるぶると震えて怒りを抑える姿が可愛くて、「ねえ、どうなんだい」と意地悪してみる。




「ば……!………き、菊の熱が下がり次第………」

最後のほうはごにょごにょと口を水平移動させて器用に喋っていた。小さくすぼんでいく唇に触れるだけのキスをして、にっと笑う。は困ったような顔をしたが、ふっと笑みを零した。
ああキッチンと部屋が繋がっていなくて良かった、と呟いていたは、俺の持ってきたメロンに包丁を入れていた。
いつの間にこっちに持ってきたのだろう。





「当たり前でしょ。アルのこと見てないわけ無いんだから」




後ろ向きだったから表情は分からなかったけれど、声色はとても優しかった。
まな板の上でメロンを切っている間中、俺はずっと彼女の後ろにくっついていた。