「残念ですが」
私はあなたからさよならをします
壁になんとなくかけてあったような、彼女の身体には不釣合いな大きな銃を取り外して肩に掛けたははっきりとそう言った。重そうに顔をしかめながら喋るものだから、置いて喋れば良いのに、とは思わなかった。
その銃が僕に向けられることはないけど、これからその銃と同じように僕に彼女の意思が向くことも無いのだ。
僕たちは解体される。
今まで持っていたものを分かち合う。
絆とか、過去とか。
…もっとも、絆なんて優しくて気持ちのいいもので繋がっていたとはいえないけれど。
黒いブーツは僕の言葉を聞くまで、踵を返すことは無いみたいだ。だけど最後のねぎらいの言葉なんて僕に思いつくと思ったら大違いだよ、と長いマフラーに口を埋めて笑った。
不気味に眼が細くなった僕の顔を見ても、顔色も表情も少しも変えない。
恐怖も怯えも畏怖も軽蔑も、一切合切捨て切った真っ直ぐな瞳の中にあるものが僕には見えない。
「きみが例外なわけじゃないからね」
みんな此処に居た、僕の傍に居た子たちは一人で違うところに行くんだ。
今更君だけに言い残すような言葉なんて無いよ。
はそれを聞くと、少しだけ口を固く結んだ。
怒りか。悲しみか。淡白なその顔からは何も窺えない。
「イヴァンさんは、寂しくないですか」
「まあ、いつでも会いにいけるからね」
「そういうことじゃないです」
「じゃあどういう意味?」
「残ってほしいって、一緒に住んでいてほしいって思わないですかって意味」
「どうして?」
「質問を質問で返さないで下さい」
マフラーの下の口がにやけてしまうのを、は感じ取っている。ささやかな疎ましさをお腹に渦巻かせながら僕と喋っている。真っ向から嫌悪を向けてくる人間はいっぱいいるけど、それをぶつけないのはこの子だけだ。
「ねえ?」
「なんですか」
「君はさ、これからどうしていくの?」
は口に手を当てて考え込む姿勢を取った。赤い絨毯の上に黒い瞳が落ちる。
ううん、と唸ってから「まあ、のらりくらりと小さな国でも」と答えた。
僕のところにいたままでいいんじゃないのかな、と言えば彼女の顔はどう崩れるだろう。歓喜に?拒絶に?それを考えるだけで僕の服の下の肌はざわつく。
拒絶だけが僕の前にあると考えるなら
心臓の血管がきゅうっとしまって血が巡るのが早くなって、まぶたがはれ上がるような感覚に陥る。
これが、俗に言う
(寂しいってやつなのかもしれないな)
「僕、少し寂しいかもしれないな」
「そうでしょうね」
今まで好きだった彼女の笑顔はここにはなかった。
「でも、私もあなたもやることは一人でできますから」
その言葉が示すのは、拒絶と独立。
今まで僕の隣にいた筈の暖かみが、繋がりが、音も無く崩れて行くのが分かる。雪の冷たさが春にまで長引くような感じの悪い温度を纏う彼女の顔には、僕への慈愛の色も尊敬の色も無かった。
今までの彼女には、家族がいて、絆があって、温度があって、花が咲くみたいな笑顔があった。
解体なんてするものじゃないと今更気付かされたのも、皮肉にも今までの笑顔が僕に向けられなくなったから。僕だけのなのだと自惚れていたことがわかったから。
「…なんでぼくはみんなと一緒にいられないんだろう」
雪みたいに冷たく、誰の意思にも左右されずに深々と降り積もる寂寥は、他の熱から隔絶するように城壁を築いていく。
ぽつりと呟いた言葉にさえ、は顔色を変えることはない。
「どうして君は僕の元を離れて行っちゃうの?」
「・・・・・・」
の目が細くなった。肩に落ちる髪の毛が顔にかかるくらいに俯いて、眉をひそめる。
冷たい雪の壁の向こう側にいるみたいな感覚。「どうして」なんて理由は簡単だし分かってもいる。
でも、だけれど、寂しくなるのが怖い僕は「行かないで」とも言えなくて。
「今まで楽しかったです」
その言葉が本物かどうかは僕にはすぐ分かった。
「」
「なんですか」
「楽しかったね。一緒にいたころ」
「・・・イヴァンさん」
「トーリスとか、エドも居たし」
「・・・」「今は皆散り散りになっちゃったし」
自分が彼らにとっての脅威だったことなんて痛いほどわかる。自分はそれを認めたくなくて相手を縛る。どうしようもない感情の低迷が次から次へと溢れだして、ぼくは彼女の持つ大きな銃を見ることができないでいた。
その銃が意味するものが、ぼくをそうするのだ。
「もう私はイヴァンさんとは決別するって決めましたから」
「僕のことが嫌いだったの?今までずっと」
「・・・そういう、意味では」
ぼくが聞きたいのはこんなことじゃない。
もう一度自分の隣に意義を置き、意識を委ねて笑ってはくれないか。そういうことではなかっただろうか。
自暴自棄になって残す言葉は無いなんて言い聞かせていたのもそれは単なる強がりで、ほんとうは。
「………それじゃあ、今度会うときは国として」
「うん」
小さく白い手が銃を持ち上げた。重そうに肩で支えて両足でバランスを取ったあと、広く赤い絨毯を踏みにじるようにして僕に背を向けた。開きかけていた重たいドアの隙間から入り込んできた僅かな風が、頬骨を撫でるのが分かる。
風が僕を撫でて感覚だけを残して消えて行くのはまるで彼女みたいだった。
だけど風なんかよりもっと温度があって綺麗で明るくて、素敵だった。
その彼女が今僕の隣を離れて背を向けて、扉の向こう側に出て行こうとしている。
手がドアノブにかかるのを見て、マフラーの下の唇を強く噛み締めた。
「あ」
どちらが洩らしたのかも分からない小さな声が追いかける落し物の後姿。寂しいかどうかなんてぼくに尋ねてきたくせに、手を引いてくれる素振りも見せないが落としたのは手袋だった。
赤色の絨毯の上に映える白い小さな手袋は皺を作って無造作に折れながらどちらかに拾われるのを待っている。
暫しの静寂。どちらかが動くでもなく、ただ落ちた手袋だけに視線を預けるその時間。
扉の隙間からの風が冷たくなっているのはきっともう夕暮れ時だから。
ゆっくり顔を上げてを見ると、同じようにも僕の顔をみていた。さよならをしますといったその時と同じような、恐怖も怯えも畏怖も軽蔑も、一切合切捨て切った真っ直ぐな瞳が僕の顔をみていた。
ぼくはにっこりと笑ってその手袋に歩み寄り、掬い上げるようにその布を拾う。目の端に映った黒いブーツの先が片方だけこちらに向いている。
「はい、落としたよ」
結局僕が拾ってあげて、その手袋をに突き出した。警戒するような黒い目が僕をじっと見つめている。
ドアノブを握ったまま上半身を捻って僕の方を向く体制を崩さずに押し黙って、試すような瞳が幾度か静かに瞬きをした。
僕の手からそれを取ろうとすることはせず。
「要らないの?」
この意味はわかるはずだ。だって、ねえ?はいままでずっとぼくと一緒に居たのだから。
彼女の笑顔が好きだったから、僕は離れて欲しくなかったんだ。本当はずっと一緒に居たかった。
「いいえ、いりません」
という代わりに、黒いブーツはもう居なくなっていた。
「……そう」
解体は、失望しか生まなかった。
100605