懐かしいあの日 火薬のにおい
晴天に群がる無数の黒い虫は次第に大きさを増して彼女達におおいかぶさった
焼けるように暑い夏の月



「あついよールートー」
「夏だからな。ホースの水でもぶちまけて来い」


サイダーは好きじゃない、と言って折角注いだグラスも放りっぱなし。綺麗に泡をくっつけた表面から離れて水面で割れていくのをぼんやりとながめているは、観察に飽きて仰向けにゆっくりと体勢を変えた。
そんなに窓辺に居たら、きっと俺よりは涼しいはずだ。なのに彼女はフローリングにぺったりと身体をつけて熱を逃がすことに精を尽くしている。
今日は風が無い。だから、余計に熱いのかもしれない。

「むわっ!どうにかしてー!溶けちゃううぅ」
「じたばたするからだめなんだ。もっと大人しくしろ」
「じっとしてたらたぶん、そのまま死んじゃう」

困った顔をしての方を見遣っても、彼女は振り向かずに黒い髪の隙間から滲む汗を覗かせたまま、窓の外を眺めていた。視線の先には、隣の家の飼い猫。見合って見合って、がかっと両手を挙げる。
びっくりした猫は首元の鈴をならしながら走って逃げて行ってしまった。
残念そうに緩慢にの両手が床に落ちる。


言われて見れば相当熱い。エアコンは人間を駄目にするからつけないと言ったっきり、兄さんは自分の部屋に篭りっぱなしだしは「ルートがいるならエアコンいらない」とか言ってたくせにこの様子だし、むず痒いことをしてくれる。

「あ、つ、い!あとぅーい。あちゅい…あん…あ…あー…あ、あ、あ、あつ…あふん」
「落ち着け」

大の字になったの太腿が緩いパンツから覗く。目をそらす際にお布施も見えてしまった。

「あ」
(ん…)

白いの腕がゆるりと動いた。こちらに向けられて、緩慢に掌が上下する。
しかし目は窓の外からそらさずにじっとそれを見つめたまま。
几帳面に新聞を畳んで隣に置き、「なんだ」と尋ねてやる。「…はやく」手の上下が苛立ちを隠さずに動く。

「何を早く?」
「膝まくら」
「いらん」
「ちがう、して」
「………はいはい」

おもむろに立ち上がってテーブルを過ぎ、の頭の前にしゃがみこんで顔を覗き込む。
汗ばんで濡れた髪が肌にくっついて不快そうな面持ちのまま、は気だるそうに頭を持ち上げた。
そこに膝を滑り込ませて小さな頭を乗せ、前髪を指で分けてやると、俺は屈んでその唇にキスをした。
食むように勢いよく飲み込んだ唇は寛大に開くことはせず、硬めに半分開いたままで自分の舌を受け入れる。

異変に気付いて唇を離すと、彼女の腕が右耳を突き抜けて天井へ指された。
否、天井ではなく横に見える青空を



「黒い虫」



はかすれたそう呟いた。
同時に、彼女が見ているものを理解する。瞳に映っているものはちがう。まがい物だ。
今彼女の記憶はあの日の晴天の下で絶望を見上げている時間で止まっている。
瞳に俺を映すこともせず、眉一つ動かさず、ただ淡々とその青空に浮かぶ一つの旅客機を自分の傷と重ね合わせて。

首を何度も振ってやった。
うつろな目で青すぎる空を見つめ、乾いた唇をかすかに震わせながら甦る記憶に意識を蝕まれる。
見なくていい、と大きな掌で瞼を閉ざしてやっても、は天を指差すことをやめずにいた。


ちがうんだ。
あれは旅客機で、おまえの傷じゃない。


「黒い虫が、わたしたちのことみてるわ」

嘘だ。それは夢だ。夏の憂鬱だよ。
宥めても、いいやちがうと唸り出す。は小さな声で、増えていく、増えていく、と念仏を唱えるように喋っていた。
自分には修復の仕様も無い過去とその傷に俺のほうが泣きそうになってしまって、覆いかぶさる。の腹に自分の顔を埋めるぐらいに身体を折り曲げて見えてしまわないように塞ぎこんだ。
細い声が抵抗するのが聞こえたけれど、今顔を上げたら泣いてしまう気がしてならなかった。
どちらが、など、言うまでも無く。


、ここは俺の家だ。安全なんだ、
「あつい。あああ、あつい、あついよルートヴィヒ。あつい…!!いや、いや、こわいよお」


塗り重ねることのできない記憶を刻んだあの夏。
鮮烈な恐怖に小さな体は今、俺の下でみえないそれに怯えていた。
必死に見えないようにするために視界を塞ぐことしかできない自分が酷く無力だと思う。
「そうだな、暑いな、暑い。…ソファに行こう。あっちに行って涼めばいい」
「やだ。やだよ、どこもあつい、焼けてるよ」
「焼けてない。ほら、」

さまよう手を捕まえて強く握り締め、自分の存在を確かにさせる。混乱で何もかも手放したが少し落ち着いてから、
俺は身体を起こしてを掬い上げ、ソファへ運んでいく。
腕の中でもは、天井と俺を交互に見上げて困惑していた。
ひどく蒸し暑い錯覚に捉われた瞬間に感じたじっとりとした汗。肌は既にそれで湿りきっている。

そんな汗に気を取られていたら、がいきなりびくりと飛び跳ねた。

腕から垂れ落ちていた腕が振り回されて、丁度テーブルに置いてあった俺のサイダーを跳ね上げる。
「あ」と言うより先に床に飛散したサイダーと、ガラスの断末魔。フローリングに広がる透明な炭酸水が窓辺にまで流れていった。
ガラスの断末魔に驚いたはぴったりと抵抗をやめて腕の中でぽつりと呟いた。

「……なつは……こわいよ」

平和と安寧を無意識に望む今の俺達にはできない傷。
振り返ればいつでも牙をむく過去。
俺はその言葉に何も言わず、小さく頷いてソファにをそっと寝かせた。

汗で湿ったの肌に流れた一筋の涙は、窓辺に流れて太陽に晒された透き通るサイダーに似ていた。


あの日もこんな、きれいなきれいな涙を流したのだろうか。







焼けるように暑い夏の月
晴天に群がる無数の黒い虫は次第に大きさを増して彼女達におおいかぶさった
懐かしいあの日 火薬のにおい



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