「あーそこ、もっと強く擦って」
「うん、…気持ちいい?」
「いいんだぞ…あ、あ、くすぐったいから指ばらばらに動かさないでくれよ!」
「えへっへー。いいじゃん別に、気持ちいいんでしょ?」
「そんなこと言ったって…アウチ!痛いよ!爪爪!」
「あ、ごめーん」

アルフレッドの頭皮は意外とナイーブなんですね。

茶色い髪の毛が泡をまとって面白い髪型を作り上げている。どうせあとで流してしまうし、角でも作ってみようか。
髪の毛を立てて遊んでいたら、寒いから早くしろと文句を垂れられた。腹が立ったので、泡ぶくな髪の毛に指を差し込んでガシガシしてやった。

「なんかもわっとしてないかい、空気」

換気扇をつけるのを忘れたから蒸気が浴槽に閉じこもって出て行かないみたいだ。肺にも水が入るみたいで息苦しい。だけどいざとなってこの空間から出ると、蒸気の持っていた熱のせいで私たちは外が非常に寒く感じられる。
億劫なのでその話は無視することにした。


シャンプーハットなんていい年こいて使わなくたっていいはずなのに、彼はよくこれを被りたがる。前に聞いたら、「なんかこれ安心しないかい?」と耳を弾くみたいにシャンプーハットの両端を人差し指で弾いた。可愛かった。
彼だからこそ似合うんだろうなぁと納得させられながら、お湯をかける。ゴム製のシャンプーハットが水を弾いてぽろぽろと床に落ちる。泡を含んだ粘ついたお湯もアルフレッドの背中を伝って流れてきた。


「あったかいぞー」
「ねえ、アーサーにもこんなこと、してもらったの?」
「……んーまあ、してもらわなかったわけじゃないね」
「そのときもこれ被ってた?」


思い出すように天井を仰いで口をあけるアルフレッド。きっとこの顔は、間違いなく覚えのあるものをわざと忘れている振りをしている顔だ。私は流し目でそんな彼の様子を見ながら、シャンプーハットの向こう側にお湯が入ってしまわないようにシャワーを頭に当ててやる。
しばらくして、「まあ、そんなこともあったかな」と曖昧に答えるその様子があまりにもわざとらしかった。
可愛らしい嘘だ。どうせ甘えて毎日これを被って洗ってもらっていたに違いない。


アルフレッドが彼の家から逃げ出したのはほんのすこし前のことで、時折昔のことを思い出しては大人びた顔をする。
どうしたのと聞けば彼は笑って首を横に振るか、なにが?と分からないふりをして話を誤魔化す。何をどう優しくたずねたって、頑なに口を開こうとはしない。
そんなとき私は、自分が誰かによって刻まれた傷を治してやることなどできないのだと改めて思うのだ。
同じに、私の傷だって彼が癒してくれるとは思えないと改めて思う。
そのときの記憶なんて既に薄れてしまったけれど、彼より前にそれを体験したけれど、治ることもなければ治そうとする意思もない。傷は一生抱えて生きていくものだから。

アルフレッドは滴り落ちる水滴をぼうっと眺めて、ボリュームを失った栗毛頭を俯かせた。
ほら、また昔の事思い出す。
締め付けられてるみたいな苦しそうな顔が鏡に映っていた。背中は頼りない。


「アルフレッド」
「うん?」
「………いたい?」
「……シャンプーハット、きついんだ。新しいの買ってくれるかい」
「……うん」


頷いた私の顔を鏡で確認すると、何事も無かったかのようにシャンプーハットを外して蛇口に引っ掛けたアルフレッド。
片足を持ち上げて蹴り上げるように伸ばし、少し遠かった浴槽に足を突っ込む。今まで静かだった水面はアルフレッドの足によって沈黙を破る。滑らかに引き裂かれて足を飲み込んでいく浴槽の縁で、水が踊った。
もう片方の足も突っ込んでしゃがむ。テレビの世界みたいに溢れ出ることは無かった。裸眼のアルフレッドが顔をごしごしと擦って溜息を吐き、私に手を伸ばす。
「入りなよ」
と促されるままに伸ばされた手を握り、私も足を踏み込んだ。アルフレッドの手を引いて前に座らせ、私が彼の背中を眺めるようにして後ろに場所をとる。不思議そうな顔の彼は、「普通逆じゃないかい?」と首をかしげた。
無視。


「はあーあ、あったかいね」
「そうだな」


「ねえアーサーと離れて寂しい?」
「そんなこと」
「うそついてるでしょ」
「そんなこと」
「ヒーローはヒロインに嘘吐いちゃいけないの」
「……………………」


アルフレッドは黙って鼻をすんと鳴らした。浴槽だったから結構響いた。
すこし、彼の頭が動いて、その先を見たらシャンプーハットがあって。
あれは彼が、アーサーの家から出て行くときこっそり洗面所から持ち出したものらしいし、彼がまだアーサーとのつながりを絶ったことを引きずっていることくらいわかっていた。

だけど彼の傷を埋められないほどの、絆。
おもいでがあったなんて。

思いもしないでしょう、泣きついてくるほど信頼されてると信じている自分が彼の気持ちを埋めることができないなんて。
どれだけ物的に、精神的に、満たされているものを与えてあげたって彼はどこかで満足していないのだ。
私が与えられないものを彼は欲しがっているから。
そして私も、彼からは与えられることの無い感情を欲しがっている。
互いに足りない。私も彼も、足してそれで支えを作ることができないから、いまにも崩れてしまいそう。


「そりゃ、随分一緒に居たからね」
「だろうねー。分かるよその気持ち」
「………きみも、」

言いかけたところで私は彼に腕を回した。
背中に柔らかいものがあたる感触に動揺を隠せないで居る可愛い可愛いアルフレッドを、力を込めて抱きしめる。


「…お、お」
「私はべつにもう寂しくないわ」
嘘だけどね。

「アルフレッドが居れば私の世界は回るのよ」
そして、気持ちがあれば。

「……………………
「うん?」
、」
「はいはい」


腹部が痙攣している。背中が震えている。泣いているから。
直に小さな嗚咽と鼻をすする音が聞こえてきて、私は一層強くアルフレッドを抱きしめる。
私の手の上から、ゆっくりと水を掻き分けてアルフレッドの手が重なってきた。ぎゅっと力強く手を握って、ふるふると首を振っている。

「ごめん」
「…」
「ごめん、ごめん、ごめん」
「うん、いいよ」
「すまない………ごめんよ」
「ううん、泣けばいいよ」

掠れてちぎれてなくなる前に一杯後悔して、それから忘れればいい。
私はそれをしなかったから、また同じこと繰り返すかもしれないけれど。

アルフレッドはいっぱい後悔している。いままで誰が、ここまで自分を生かしてくれたか考えているから。
アルフレッドはいっぱい忘れようとしている。これからの生活にこの感情は必要が無いから。
私が埋められない。私が消せない。

水面が嗚咽と同じようにちゃぷちゃぷと揺れて、悲しさを物語る。
だけどこんな風に毎日後悔していたって何も変わらないのが現実で、私の虚無感だって日に日に増えていくばかりだ。
私は広いアルフレッドの背中に沢山キスをして、頬を擦り付けた。小さな子供をなだめるように、前後にも揺れてあげた。
肩を叩いて振り返らせると、私はその泣き顔を両手で挟んでぐりぐりとこね回す。
不満そうな顔をもっと歪めてくしゃくしゃにして、また細い泣き声を上げて抵抗するアルフレッド。

「ねえ泣かないで」
「いやだよ。さみしいよ。どうすればいいんだよ」
「……じゃあ、今日っきり。これから私が10数えるまでに涙を好きなだけ浴槽に零すの。そしたら、もう泣かないで」
「そうしたら、寂しくなくなるのかい」
「なくなるよ」

浴槽の水に溶けた涙はあとでお湯と一緒に抜けていくから。そこでたくさんの水と混ざり合って、涙かどうかも分からなくなってしまうから。水は水に沈んでいくから。
ね、と首をかしげて指を折り始める。すると水の中からアルフレッドの手が伸びてきて、カウントダウンをさえぎった。
顔を上げると、アルフレッドは複雑そうな面持ちで私を見ている。なに?とさっきとは違う要領で首を傾げて見せた。


「君のほうが、寂しそうだ」
「…………え」
私のほうに向き直ったアルフレッドが呟いた。
「だから君が泣けばいい」
いつのまにか彼は泣きやんでいて、いつのまにか私は泣いている。カウントダウンをやり直して、指を一から折りなおす彼は「10数えるまでじゃなくていいから、泣けばいいよ」と俯きながら笑った。大人びた顔だ。

指は、もう既に4だったけれど、私は5で俯いた。6で顔を歪めた。7で、声をあげた。
ぐしゃぐしゃに顔を擦って泣きじゃくった。

「よしよし」
撫でてくるアルフレッド。ちょっと生意気で腹が立ったけれど、安心した。
「アルフレッド」
「うん、よしよし」
「好き、すきなの」
「うん知ってた。知ってたよ。ごめん、俺も落ち着いたらその気持ちに向き直ってみるから……ごめん、ごめんよ」

傷を負いたての彼の心に私をとどめる余裕など無かったみたいだ。
でもよかった、見てくれないわけじゃなかったんだ。


アルフレッドを見上げると、困ったように肩を竦めて笑った。
大丈夫だよって、でも傷の痛みが落ち着くまで待ってねって、そういう顔だった。随分と大人になったなあ、と感じている暇もなく、結局号泣する私の涙に釣られてアルフレッドももじゃもじゃと泣き出した。


どういう光景だよって誰も突っ込んでくれる人がいなかったから、二人で浴槽がしょっぱくなるまで泣いた。
でも彼の気持ちがわかったから、たぶんこのあと私の寂しさは自分が言ったとおり沈んでいく。



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