「髪を切って」


いきなり俺の家にやってきたは玄関先に入り込むなりそう言った。

あんまり急だったものだから少し吃驚して目を丸くしていると、揺らいでいるの小さな瞳がきゅうと細められる。
なに?なんて不機嫌そうに聞いてくるから首を振って中に入れると、俺は洗面台のほうから鋏とくしを持ち出した。は椅子を拾いリビングの中心部にどっかりと置いてどっかりと腰掛ける。
見たところ何にも持って来てないみたいだ。いつもはお菓子とかあるのに。


テーブルに置いてあった紅茶を飲み干してカップを置き、垂れた髪の毛を耳にかけての方に歩み寄る。
後ろを向いたの姿、随分と髪の毛は伸びていた。見ないうちにまた女の子らしくなって戻ってきたものだが、はふくれっ面をテレビに向けながら俺がマントをかけるのを待っている。

何を理由にここまで伸ばしていた髪の毛を切るのか俺は知らない。



「いいの?切っちゃって」
「いいよ。もう」
しらない。なんて投げやりに言い放った。
「あ、そう。どのくらい?」
「いっぱい」
アバウトだなぁ。


はいはいいっぱいね、ととりあえず了承して鋏を握り、片方の手で髪を梳く。
長い黒髪は真っ直ぐに指を通し、するりと抜けていった。


鋏を入れると、しゃきんと音を立てて細かく散っていく。ああ、床に新聞紙でも敷けばよかったかなと今更後悔しながらも手を進めた。

東洋人にしては細い髪の毛だ。握ったらあとがつきそうなぐらい柔らかい。

細められている目を横から眺めながら、との会話に興じる。


「長くなったね。何で切っちゃうの」
「いいでしょ!なんでも」
「願掛けでもしてた?」
「べつに」
「話してみなよ。お兄さんなら何でも解決できるぞ」



「……………アーサーにふられた」






一瞬鋏を動かす手が止まってしまった。あいつの名前が出てきたので思わず怪訝そうな顔をしてしまった俺は、またすぐにの後ろのほうに回ってそれを悟られまいとした。
なんでそんなに率直に言うのか分からないと冷や汗を滲ませながら、動揺で鋏が大きく動いてしまわないように気を配る。


幼げに唇を尖らせてそう言ったの言葉に急に無言になってしまう。
鋏とテレビの中の喧騒だけが部屋に響き渡って、やがて鬱陶しい耳鳴りが頭をぐらつかせた。


「………な」ん、で。あいつなんだよとは言えなくて、言いかけて止めて、また黙る。


は黙ったままテレビに目を向けて、髪の毛が短くなっていくのをただ待ち続けた。



「アーサーは髪の毛長い子がすきだって言ってたから伸ばしてたの」
「あ、そう………」
髪型まで好みが似るとは、俺も相当趣味が悪いのだろうか。
「だけどなんか、…あーもうなんか、知らない。今はそう言う気分じゃないって言われた」
「なんだそれ」
「こっちが聞きたい」


理不尽な理由に正直腹が立つ。俺を見てくれないはあいつのことを見てて、それでもあいつは気分次第で彼女に決断を下したのだ。
の想いを無駄にするアーサーと、余計自分が報われなくなった状況に置かれて切なくなってくる。それでも鋏は髪の毛を切ることを止めず、鋭い音を立てて長い髪を落としていく。


俺も長い髪は好きだった。というか彼女自体が好きだった。


だから彼女が誰かのために伸ばしていた髪の毛だとは知らなくて、ずっと綺麗だなって、可愛いなって触ってた。
だけど今日アーサーの為だったって知って、髪の毛を撫でていた自分の手の垢を歯ブラシかなんかで真っ赤になるまで洗い落としたくなった。
趣味が一緒なところも身長が同じなところもユーロスター繋いじゃったところもみんなみんなみんな反吐が出るほど嫌だ。ましてや彼女をめぐってこんな結末になるなんて、恥すぎて矜持が持たない。あんなやつの何処が良かったんだろうと考えれば考えるほどだ。


だからこの髪の毛はもう、跡形も無くさっぱりと切り上げてやることにした。


「あー短くしちゃっていいから」
「わかってるよ。いっぱいって言ったからね」
「うん、見違えるようなかんじで」
「はいよ。………そういえば、あいつの何処が良かったの?」
「わかんない」
「わかんないの?」
「うん」
「何で?」
「好きになるのに理由が必要?」

………そう言われればそうだな。

「じゃあ何処が好きだったの?」
「んーなんていうか、えーと、………どこだろ」
ほんとガサツ」
「うるさいわヒゲ」
「ドライ」
「そうですねーはいはい。あーどうせ私は眼中にも無かったですよー!」
「うわっ動くな!あっ」


じゃきりと大きな音がして、後ろ髪が水平に切断される。

大きく仰け反っていたがぴたりと綺麗に静止した。目の前の惨劇は俺のせいじゃない、彼女が大きく仰け反って丁度鋏が歯をあわせたからだ。
後ろを振り向いたがわなわなと唇を震わせて、涙が滲んだ目を向ける。ああーだから俺のせいじゃないんだってまじだって、ごめんって!
「フランシス、」震えた声で俺の名前を呼んだ。鋏をしゃきしゃきと動かして「はーあーいー。おーよーびー?」の台詞を代役してもらった。


「………どうなったの?」
「大変」
「……どうすんのよおおおおおおおお!」
どうすればよかったのよおおおおおおお!
「ごめんごめん。ちょっと絶壁だけど、結っておけば気にならないから」
「あああ!うわあああ!」鏡を見て絶叫する
「ごめんごめん。仰け反られたからさ」


がっくりと肩を落としてふくれるを尻目に俺のヘアゴムを洗面台から持ち出す。の元まで戻ってきて、すっかり短くなった襟足を集めて結い、頭を撫でる。ちょこんと首から跳ねる短い髪の毛が可愛らしい。
ショートカットも似合うよって言ってあげたかったけれど、なんだか言える気がしなくてそのまま無言を貫き通した。

その代わりにのほっぺたにキスを落として、耳元で小さく囁く。



「……今度また」


俺のために


「髪、伸ばしてね」





は頷かなかった。


091204