「雨だ」


本田から貰った最新型ゲーム機のリモコンを振り回していた手が緩んで、その顔が窓のほうへくいと曲げられた。
家から漏れ出すんじゃないかってくらいに大きな音を出してプレイしていたアルフレッドが気付くなんて、と意外さを感じながらも新聞から目を離すことはしなかった。
「どうせいつもの霧雨だろ」
傘なんてなくたって人は歩き続けるし、なにも変わらない。

アルフレッドは首を振った。
「違う、すごい雨だぞ」

リモコンが窓を差した。子供が食事中に箸でものを指すような不快感に苛まれながら素直に見てやると、なるほど、外は土砂降りだ。どうりでヤツも音に意識を傾けることをしたんだろう。
窓を見ていたはずのアルフレッドの首はいつのまにか俺のほうに向いていて、口元はにんまりと得意げにアーチを描いている。

眉を片方吊り上げた。彼はリモコンを柄のようにして立て、もう片方の手でその柄を握り上へスライドするジェスチャーをやってみせた。その間もにんまりした口元は変わらない。
その伸ばした何かを肩に掛けて、開いた片手の掌を天井にかざして上を向いた。
なるほど、傘だ。


「迎えに行ってあげたらどうだい。傘、持って行ってないよ」
「あいつおっちょこちょいだからな。しょうがねえ、行ってやるよ」

新聞は既に畳まれていた。どれだけ行動が早いんだと苦笑する間もなく紅茶のカップをシンクに置きっぱなしにし、上着を羽織った。視界の端っこでは、アルフレッドがいそいそと片付けを始めている。
不思議そうな顔をしていたのがばれたのか、ヤツは俺の顔を見ていやみったらしく「俺も帰るよ」と言い出した。

おう、帰れ帰れ。とは言わずに、俺より広い背中を一発殴った。





ここの天気は変わりやすいっていうのに、相変わらず慣れないようでいつも出かけるとき傘を忘れるのが彼女の癖だ。
降ったり降らなかったりするものの…だがこの程度の雨では傘は差さない人間のほうが多い。
彼女を迎えに行く必要も無いかも、と思ったが、今日は土砂降りだった。

意外と空気は冷たい。
アスファルトに落ちる雨は勢いよく跳ねてまた一面の水と一緒に地面に溶け込む。
肺に入る湿気った空気にむせそうになりながら大きな深呼吸をする。

これから傘の中に彼女と、ふたりで。
そう考えると今にも肺に水がたまりそうだ。



直に見えてきたパン屋の屋根の下にちょこんと立っている彼女の姿が見えた。
心なしか、足が速まる。気持ち悪い俺を感じつつ薄く伸びて溜まる雨水を蹴り上げて進む。
大切そうにパンなんか抱えながらこちらの存在に気付いた彼女は、片手を控えめに上げて控えめに振った。
手を振るのが恥ずかしかった俺は、とにかく早くの元に着こうと足を速めるばかり。

にっこり笑ったが俺を見て言った。

「よくパン屋にいるって分かったね」
「お前ここのパン好きだろ」

傘に滑り込むようにして入ってきたがパン屋のおやじに手を振ったのを確認して歩き出す。
満足そうな彼女は紙袋の中のパンを覗きながら雨水を蹴った。


「アルは今アーサーん家?まだゲームしてる?」
「いや、帰った。ドーナツが無いって文句つけてな」
「ぶふふふ、アルらしい」
「パン買ったのか?あいつの分」
「そうだね、買っちゃった」

じゃあこれは私が帰り際にアルフレッドに渡すね、と笑うに頬がひきつった。わざわざあんなやつの所まで行ってひとつパンを渡すなんてことしなくてもいい、余計なことを吹き込まれるに違いないのだ。
いい、いい、と首を振ってそのパンをおもむろに鷲掴みにすると、大きく口を開いて齧った。外界の湿度と口の中の乾燥。
異様な感覚に苛まれながらなんとか飲み込んで、横目でを見た。

えらく驚いている、というわけでもなく、ただ淡々と俺が食べるパンを見つめている彼女。腹が減っただとか美味そうだったからとか特別理由を言う必要も無いみたいだ。とほっとしながら、傘を差して俯きながら足早に流れていく人たちを見た。


「せっかく三人で遊びたかったのに」
「…そうだな」
「アルとゲームすると盛り上がるからね」
「五月蝿いだけだ」
「子供だから楽しいんでしょ」
「どうだか」


友達でもない、親密な仲でもない、微妙な距離感の俺と。それが足にも出るみたいで、何も言わずに少しだけ離れている彼女の右肩はしっとりと濡れていた。
流れる細い髪の毛が湿気で跳ねているのが窺えた。あまり気にする素振りもなく、ぼんやりと雨の降る町を眺めている。

鼓動が早まったのはきっと自分が彼女に傘に入って欲しいと思ったから。
濡れるよりか、触れて溺れればいいと思ってしまったから。
 
変な耳鳴りがすると同時に顔が熱くなってつい節目がちになってしまう俺の右手に残ったパンは、無理矢理口の中に押し込まれた。緊張と小麦粉で乾ききった口の中が悲鳴を上げているような気もするけれど、本当に悲鳴を上げているのは心臓の方だ。
隣に、彼女がいる。
それでさえ困惑するはずなのに、ましてやひとつの傘にふたりで入るなど。


パンだけは濡れないようにと左脇に抱えた紙袋。湿った右半身。の。
近寄ればいいと言えないがために遠い右肩。湿った左半身。俺の。


「…あ」
目が合って、変に緊張して、急に雨の音が激しくなったかのように耳には雨音しか入ってこなくなった。
空気に触れていたはずの右肩に温度が触れる。
肩口に当たるさらさらした髪の毛と、小さな頭。伏目がちな目が髪の隙間から見えるのとたくさんの心臓の鼓動でようやく、
が傘に入ってきたのだと知る。

固まった俺の首に見向きもせず、俯いたままは歩き続けた。
首から上なんてそう、鏡にも映せないくらいだらしないに決まってる。名前を呼びたいのに口だって動きやしない。


「…濡れちゃうから」


その声の意図も、気持ちも、動機もすべてが俺を自惚れに陥れる。
空気のつまった肺が破裂する前に傘の下から抜け出したいのに、抜け出せない。

「あ」

雨粒が傘にあたる音が止んで、パンが一つ零れ落ちて、地面にタータンチェックの傘が叩きつけられる。
初めて抱きしめた身体は細くて柔らかくて、壊れそうなくらい暖かかった。




「             」




雨はまだ激しい。




100814