マグカップはふたつ、ベランダにおいてあった。

ひとつのマグカップが空っぽなのに対して、もうひとつのマグカップにはまだコーヒーが注がれている。
黒い水面が初夏の風に揺れながら空の青を映しているのが、室内からでも窺えた。
そこに映る木々は夏の到来にざわめき、風を受けて深々と緑の両手を広げていた。

その雄雄しい自然を映し出す水面の数は本来、ひとつだった。
『水面を張る受け皿』は本来、ひとつだったのだ。
ついさっき招かれてこの部屋に入り、テーブルによりかかって立っているだけの私の推測、だけれど。


「おーいー」

「ん…うん?」

緩慢に巡っていた思考を緩慢にせき止めたマグカップ放置犯は、私を呼んでおきながら背を向けていた。
作業をやめない体が動くたびに、青いゴムで結わえた男性にしては長めのブロンドが、機嫌よさそうに鼻歌を歌ってコーヒーを入れているそのシルエットにあわせて揺れる。
「コーヒーには何か入れる?」
「…ああ、いや、いれない」
「お兄さんの愛入れとく?」
「いらない」
「はっやー…冗談通じないのかねこの子は」


やっぱり、あそこのマグカップは意図的に置いたものじゃない。どうしていつも使っているマグカップはあそこにあるのに、また違うカップにコーヒーを入れるのか。理由なんて聞かなくても分かる。
急に腹部が熱を持ったので気晴らしにフランシスの入れてくれたコーヒーを口に含んだ。
…………にがいばっかりだ。

「フランシス、コーヒー入れるの下手糞だね」
「そうかな。でも愛はこもってるでしょ?」
「愛って味でも分かるものなの?」
「もちろん!」

それはあなたが、私に気持ちを預けるよという意思を含めたものなのかどうなのか。
テノールの優しい声にはわかりやすさだけが窺える。たおやかな失望と、したたかな嫉妬の渦が心拍数の上下を促す。


ブロンドの長い髪も、マグカップが一つ余計なのも、それに気付かないのも、ぜんぶあの子が彼の中に残っているから。

ぽっかり空いてしまった自分の心の穴に風が吹くのが怖くて、「何でもいいから」って私をうめこもうとしている。
「あの子」がいた場所に「わたし」を入れて、精神的欲求の解消を求める。
そんなことしたって、空っぽのマグカップが満たされるわけ無いのに。


「…ばかじゃないの」
ばかなのは自分だ。
上手に騙しているつもりの彼に上手に騙されたふりをして、一ミリでも一秒でも一瞬でも彼の心に留まることができるのを望んでいる。
「ばかじゃないよ」
あなたも馬鹿かもね。


あの子が灰になって奪われた日が近くなると、彼はおかしな言動を起こし出す。こっちから見たらそんな態度もろばれだっていうのに、そ知らぬ顔で私やアーサー、いろんな人に皮肉を言ったり優しく笑いかけたりしている。
そして今も暇だった私を呼んで一緒にコーヒーを飲んで、自分の空間に誰かを置くことで満足する。
(コーヒー)
もう飲む気にもならなかった。
なんとなく両手で押さえたマグカップから皮膚にじわりと伝わってくる熱がいやに粘っこくて、いらっとした。

そんな私の感情にも気付けない彼は節くれ立った指で私の髪を掬った。細い、黒い、髪の毛が逃げるようにして指の隙間から流れ落ちる。また私の頭からぶら下がりなおして、すました顔をしてフランシスを見るのだ。
見上げれば、優しい顔。いつくしむような、撫でるような滑らかな視線を私に向けている。
少し間違えれば、好きだよといってしまいそうな口元。いいや、この顔はもう言う準備をしている顔だ。

案の定、私の一番聴きたくなかった言葉を投げかけてフランシスは愛を謳った。


「誰よりも愛してるんだ」


その言葉のどこに真実性を見出せばいいの。
マグカップを並べて平然としていられるあなたの、遠くを見ている青い目のあなたの、青いゴムなんかではなく永遠にないものに縛られ続けるあなたの、その饒舌さにはどこにも真実性なんか無いわ。

髪を撫でた指はマグカップを包む私の手の甲へ覆いかぶさった。掌に張り付くマグカップの表面の熱よりずっと冷たくて、柔らかくて、酷く怖い。
丁度窓の外が一層夏風に吹かれて大きく揺れて一羽、鳥が飛んでいく。
明るいベランダ。暗い過去。ふたつ、空っぽと満杯。

「ひどい」

大きく首を横に2回だけ振って手を払いのけた。
取っ手が引っ掛かって大きく傾いたカップの中で大きく波打つコーヒーには目もくれず、睨むように彼を見る。
椅子ごと固まった気がした。逃げられないと思っているかもしれない。

莫迦、愚鈍、愚昧。あなたの目に映る私はわたしじゃない他のひとだってぐらい
わたしをあの子の代わりにしようって無意識に考えちゃってることぐらい
私がそれに気付きもしてないと思ってるけど一番自覚できて無いのは彼自身の気持ちだってことぐらい
ぜんぶぜんぶ分かっている。
憎い、憎たらしい。憎悪が湧いて出てくるのがコーヒーの色みたい。


「なんでそう言うこと言うの?フランシス」


湯気が出なくなったコーヒーの水面。冷め切った水面。フランシスの顔を映し出した。
莫迦だ。このひとはばかだ。


「…そんなこといわれたら、好きになるしかないよね」



大好きなのよ、それでいいのよ、ガリア。
上手に上手にムジカクでいて、それでいて、私を埋め込んでいて。



100707