障子戸を開く。

いくらか朝日が差し込んでいるにもかかわらず、畳の上に敷かれた布団が動く気配は無かった。
昨日あれだけ飲んだくれたのだから無理はないだろうとは思ったものの、身じろぎ一つせず眠りこけられると生きているのかどうか分からなくなって来る。不安になったので、忍び足で布団に近付き枕元を見た。

このひとの朝は、早い。
だけど昨日は折角だからゆっくり休んでくれとでも言われたのだろう、こんな時間まで眠っているのはとても珍しい。
脱いだ服も片付けないで布団に入っているのは、酔っ払っていた所為もあるのだろうか。
菊兄さんも酒を勧めすぎだ。


起こす気は毛頭無い。あれだけ常に眉間に皺を寄せ続ける彼が、普通の顔で寝ている姿は面白いと思うから。
寝息も静かで、鼻まですっぽり布団を被っている。よっぽど寒いのだろう、浴衣一枚と布団一枚、おまけにここの冬は寒い。

「…………」

横を向いている頬に触れる。ぴくりと瞼が微動した。
私を見つめるダークブルーはいま、瞼の裏でなにを見ているのだろう。
中指がするすると優しく下へ降りて行く。

「ん……」

こちらの方に寝返りを打つルートヴィヒ。いつもは私がこのひとに起こされて朝が始まる。
今日は逆だ。
窓の障子も閉めないで眠る彼の隣に座り込んで寝顔を眺めるのも悪くない。綺麗な彫刻のように彫りの深い顔。苦労を刻んだ顔。いろんなものを見てきたのだ、私よりもずっと。

この瞳が開いた時その顔は私に向けられる。誰に向けるより特別な感情をもった瞳を向けられる。
優越を超えた優越。限り無い高揚感に、「ルートヴィヒ」名前を呼んだ。彼がすんと鼻で息を吸い込んだ音だけが、静けさを震わせた。
薄く目が開かれる。「…うん………、」半開きの目をこすりながら上半身を起こすルートヴィヒ。
横目で私を見た後目から手を離して前に向き直る。が、またすぐに私の顔を覗き込んだ。怪訝そうな表情で。


「おはよ。どうしたの」
「………」ルートヴィヒは首を横に振る。
「ほらごはん冷めちゃうよ。行こ」

「うん?」

頬に触れたルートヴィヒの大きな手。

「なに」
「なにじゃない」


なんて顔、してるんだ


そう言われて無意識に、私はルートヴィヒの手の上から自分の頬に触れた。
近眼なんかじゃないくせに、これでもかっていうくらい顔を近づけて様子を窺ってくる彼の顔は心配そうだった。
言われて始めて気付いたのは、私の顔が歪んでいたこと。大きな手をぎゅうと握り締めると、呼応するようにルートヴィヒの手もぎゅうと握り返してくれる。
布団が擦れる音がして、彼は少し私に近寄った。
あたたかい手が焦りで湿ってくるのが分かる。

「何かあったんだろう」
「ないよ」
「嘘をつくな。お前はいつもそうやって何とも言えないような悲しい顔しながら首を横に振るんだ」
「ないよ、ない」
ただ、ただ。

いつかこんなこともできなくなっちゃうんだろうなって。
形があるものはすべて、さいごには跡形もなく消え去ってしまうんだよって。
もし私とあなたがすれ違って、顔も見合わせたくないと思い合う日が来てしまったとしたら、それまでの思い出はすべて嘘になってしまうんじゃないかって。
「こわいよ」
形あるものがこわいよ。
限りあるものが怖いんだ。

私は襟元の崩れたルートヴィヒの胸に擦り寄る。滲んだ目が、布団の花柄をすべてぼかしてしまった。
つんと鼻の奥が鈍い痛みを帯びた頃、ルートヴィヒは慌てだしてとりあえずと頭を撫で始める。
朝日が右半身に降り注いで仄かな熱を与えてくれたけど、私の心臓は冷たかった。


「ルートヴィヒ、ルートヴィヒは綺麗だよ」
…」
「わたし、…わたし不器用だから、その日が来るまでに十分にルートヴィヒのこと愛せないかもしれなくて」


その日は今日かもしれないし、もしかしたら次の瞬間かもしれなくて。
私はそれが恐ろしくて、そんなことになるんだったら心を置いていかないようにしたほうがいいんじゃないかって、相手に気持ちを傾けることを恐れる。
臆病な私の震える手をルートヴィヒは一層強く握り締めた。あたたかい。
私の名前を呼んで、抱き返すルーヴィヒの強かな腕。
単なる私の考えすぎに過ぎないというのに、彼は呆れる表情を見せるでもなく、泣き出す私の背中を優しく撫でてくれた。
その優しさがまた、私を苦しめる。

不器用という言葉で苦手なことを避けたくは無かった。だけどほんとうにこれだけはどうしたらいいのか分からなくて、私は背を向ける。片付けてしまう。隠して見えなくする。
他の子はもっと、たくさんの愛情を知っていてそれを表現する術などいくらでも持っているけれど。
私には、なにもない。


「ルート、ルート」
「ん……寝るか、一緒に」


泣いている私を必死で慰めようとしている様子が分かる顔。私はごめんねも言えないまま四つんばいでルートヴィヒの布団の中に潜り込んだ。足を突っ込んだら分かった、私の足の冷たさと、それと対照的なルートヴィヒの熱。
心臓が震える。ぬくもりが怖い。これが冷えてなくなる日があると考えると、私はどうしようもなく泣きたくなる。
私は朝食のことなんてもうどうでもよくて、はだけた胸元に涙で濡れた頬をすり寄せながら密着することだけに専念した。確かめるようにつよく、抱きしめる。

「ふ、う」
「泣くな。まったく、臆病だな」
「好きよ、ルート。好きだからおねがい」


いなくならないで。


「なるわけないだろう」
「ぜったい?」
「ああ」

その言葉が本当かどうかは定かではない。このあと何が起こるかも分からない。
わたしはただ今の言葉を信じて彼に依存し続けるしかできないのだ。

直に彼の温かさが私にも伝わってきて、静かなまどろみへと変わっていく。その温かさに、嗚咽を交えた泣き声も遠のいて、私はじっと彼の腕の中で背中を丸めたままでいた。ルートヴィヒは泣き止むまで髪を撫でて、抱きしめる力を弱めなかった。単なる私の思考の行きすぎにも関わらず、優しくしてくれることにまた少しの罪悪感を覚える。

ルートヴィヒの前髪が、揺れた。
首をかしげて私を覗き込んできたみたいだった。
泣き顔が不細工だから、と顔を伏せるが、ルートヴィヒは首を横に振るだけで何も答えてはくれない。
顎を掴まれて持ち上げられると、濡れていた頬を滑るルートヴィヒの唇。すこし強引で、すこし乱暴だ。
下から上へ、まるで零れ落ちることを赦さないようなその仕草に私は布団の中で息を呑む。

部屋の静けさが、逆に怖かった。


「…………泣くな」
「だって」
「よし、じゃあ泣かなかったらご褒美だ」
「なに?」
「撫でてやる」
「……泣いてやる」
「何がいいんだ」
「そんなの決まってるでしょ」


涙声の不満を、眉をしかめながら聞いているルートヴィヒ。
鼻をすすった私はすこし笑って、「そばにいて」と要求した。


そのあとすぐに「ずっととは言わないから」と付け足すと、ルートは「結局はお前なんだな、」と呆れながらもキスをくれた。



100228