「寝ないでくださいね」
「大丈夫ですよ!」
足をばたつかせてローデリヒの忠告に反抗する。前回一緒にオペラを観に来たときは途中で爆睡してしまうという失態を犯してしまったので、今回は気をつけなければ。
折角愛しい人とオペラに来て、ムードの欠片も感じぬ行為をしてしまった事あれはぜったい忘れないぞ畜生「楽しみですね蝶々夫人!」
「ええ」
隣で優しく微笑んだローデリヒにつられて、私も微笑んだ。
ローデリヒはこの演劇を見た後、仕事で暫く遠出してしまう。しばらく返って来れない代わりに今回は奢りますよ、と精一杯の優しさを見せてくれた彼。
彼のいない2週間はきっと凄く長く寂しいものになるのだろうけど、そうやって気を使ってくれる事で少し気が楽になる。
そう私は貴方のためならいくらでも待つわ大好き愛してると一歩間違えれば危ない道に入り込みそうな思考を垂れ流している間に、観客達は席に着き始めた。
暗くなった空間にしんと静まり返る空気、ずんと重みを増して私たちに降りかかる。上がっていく幕の下から出てきた華奢な女性が蝶々夫人。
背の高い異国人に恋をした夫人は叔父に大反対され結婚式を寂しいものにされながらも、彼と結ばれてすばらしい初夜を過ごすのだった。
いいなぁ、こんな熱い恋を私も隣の彼と…なんて脳髄に濃硫酸でも流れているのではないかと疑われかねない考えをしてしまった自分に腹が立つ。
なんというか、行為で連れてきてもらったのに申し訳ない。
頬が緩みきって火に当たった蝋燭の如く融解していきそうになりながら、舞台に立つ夫人と軍人を見つめた。
結婚生活も束の間、彼が母国へ返って3年の月日が経つ。3年前彼を寂しそうに見送った蝶々夫人は未だ健気に帰りを待っていた。
なんだかその光景を見てきゅうと胸が締め付けられる。
彼には母国に妻がいるなどと露にも思わぬ蝶々夫人は、『駒鳥が巣を作る頃に返ってくる』という言葉を信じて待ち続ける。
下女の言葉にさえ耳を貸さずに信念を貫き通す彼女を見ていると、急に悲しくなった。
まるでこれから仕事で遠出するローデリヒと私のようで。
彼女のように可憐で慎ましやかで、かわいらしいところなど持ち合わせてはいないけれど。だけどどうしてもその立場に私たちを置いて物語を進めてしまう。
蝶々夫人に詰め寄る男の人にさえ意識を向けず、只管に夫を待つ。
ある日、その話を聞いて罪悪感に苛まれた夫は母国の妻を夫人の家の玄関先に置いて去ってしまう。
夫人は玄関先に立っていたすらりと高い外国人女性をみて、これまでいろんな人間に言われてきた言葉が嘘ではなかった事を悟った。
絶望に打ちひしがれる蝶々夫人に、もしかしたらローデリヒと私もこんな、とよからぬ憶測が頭を過ぎる。
だが彼女は決して感傷的にならず、彼女を素直に祝福していた。
子供を寄越してくれと言われ、彼が引き取りに来てくれれば渡すと返した夫人は自害を決意した。
『名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉の為に死なん』
凛とした声を張って、毅然とした態度で彼女は父の形見である刃を自らの喉に突き立てて命を絶った。
幕が静かに下りてくる。拍手が細々と鳴り響いた。
「悲しい物語でしたね」
「………」
言葉も返せず俯いて、拍手が鳴り止むのをじっと待った。
これが終わったら彼は、遠くへ出てしまう。もしかしたら私にも蝶々夫人のような顛末が待っているかもしれない。
そう考えると怖くて怖くて仕方がなかった。
「どうしました?」
「…いえ、」
劇場を後にして、二人で駅まで歩き出す。最後の見送りで私は何か残せるものを、と必死に考えたが、そんな余裕ももう無かった。
進まない気分を無理矢理に押し出して、足裏を擦るように彼の半歩後ろを歩く。綺麗な姿勢で歩くなぁ、なんて考えながら。
大分冷え込む時期となり、からっとした空気が頬を滑った。冷えますね、と呟いて手を擦る音が聞こえると、私ははっとしたように顔を上げて自分のしていた
手袋を取り外して彼に握らせた。ぎゅっと強く強く、これでもかと言うくらいに。
びっくりして硬直するローデリヒに言葉を掛けようとするがなかなかいい台詞が浮かばず、それどころか先刻のオペラを思い出して涙さえ滲んできた。
どこにもいかないで。かえってきて。わたしだけをみていて。
言えたらどんなにすっきりするだろうか。
「………」
「ご、ごめんなさいあの、……蝶々夫人」
むぐむぐと口の中で言葉を漏らすと、ほうけていたローデリヒの顔がだんだんと弛緩してくるのが分かった。綺麗な目が細められて、笑顔が生まれる。
「御馬鹿さんですね」
私が貴女を置いて他の女性と関係を持つと思いますか。
そう言って私の頭を撫で、額に優しく口付けたローデリヒ。脳味噌が沸騰しそうになるのを抑えたら、握っていた手袋とローデリヒを強く締め付けてしまった。
唇を離した彼はここが駅の前だという事も関係なしに私を抱き寄せて背中を撫でる。
「帰ってきますよ、ちゃんと」
「本当ですか?いつ?」
「駒鳥が巣を作る頃」
「…………」
「嘘ですよ嘘嘘。泣かないで下さい」
よく無言になっただけで私が涙を製造していることに気が付いたなこいつ。といわんばかりに眉をひそめてらしくない冗談を吐いた彼を睨む。
困ったように笑ったローデリヒは私から離れ、握らされていた赤い手袋を自分の手にはめ始めた。
小さいですね、と私の手袋に手を入れながらぽそりと言った。その割にはするりと入るのは、ピアノをやっている彼の指が細い所為だろうか。
なんだか少し切なくなった。
「持っていて下さい」
「勿論」
「帰ってきてくださいね!ちゃんと……」
くすりと笑ったローデリヒは、はい、と一言頷いて私にもう一度キスを落とす。寒さで赤く染まった頬を親指の腹で撫で、温かくして過ごして下さいね、と最後の最後まで優しさを貫いた。
寒い、寒い日だったが、彼の笑顔は温かかった。