寝室まで、シャワーの音は聞こえない。
だからこそいつ浴室から出てきてこちらに向かってくるかが分からなくて私はいてもたってもいられなくなった。

乾きたての熱気がこもった髪の毛をよく梳かして髪型の確認、服装が可笑しくないかの確認、キスするときの唇の最終確認、
石鹸の匂いの確認、全て終わらせてもまだ足りないような気がしてならない。
へたに動いて失敗したくない、と思った私はぱりっと張られた白いシーツの上に寝転がることも椅子に座ることもできず、
ただただうろうろと部屋を歩き回って手鏡で自分の緊張しきった顔を覗き込んでいた。

ゆでだこのようだ。目では鏡の中の自分を見ているが、脳味噌ではこれから行われる未知への跳躍を全て想像してしまって
まるで脳処理できない。緊張している自分の顔を鏡でみて緊張しているような気もしたので、もういっそ手鏡を置いてしまえばいいとも思った。



あんまりにもうろうろしている時間を長く感じた私は、からからの口内を潤しに行こうと思いドアノブに手を掛ける。
押し戸であった。私は力を入れていないのに、勝手にドアが開く。ひっぱられるようにしてつられると、放り出された体がドアの向こうの
ルートヴィッヒにあたる。
「…………………ル」ートヴィッヒ!いたの!

口が開いた。ルートヴィッヒも上気した顔面をさらに赤く染め、きまずそうに青い瞳を下ろされた前髪へ埋めた。

相手も照れているのだ、と彼の胸にいまだにいる私もそのことに対して脈拍を上げる。もう喉は真昼の砂漠だ。


「………遅くなってすまない」
「…あ、いや、その」
「………えー、あー、様子を見に行こうと…?」
「ちっ、ちがっ、あ、いや……み、水み、みず水を」
「ああ!ああみ、水」


二人そろってどもって部屋の外に出る。廊下から台所までが酷く遠く感じた。
「……………」「……………」足を止めた私の後ろで、恥ずかしくて声が出せないルートヴィッヒがそれでもどうしたのかと聞こうとして
いる様子が背中から伝わってくる。ごめん振り向けないし何もいえない、とその信号を無視した。

一分経ったか経ってないかで私がようやく口を開く。
「やっぱりいいや」
「あお、そ、す、そうか」
部屋から出たときとおなじようにどもってまた部屋の中に入ると、本番が近付いたのだと自覚してことさらに口が回らない。
またも足を止めた私だけれど、今度は彼は後ろで同じように立ち止まらなかった。

私の前へ歩いてベッドを一瞥し、向き合うようにして方向転換をしたルートヴィッヒ。ひどく部屋が蒸し暑いと思うのはきっと今、
さっき手鏡の中にいたゆでだこが絶賛発動中だからだろう。


これから私、この人とえっちなことする。


経験は両者ともなし。知識だけがものを言うこの状況。走馬灯のように駆け巡る羞恥と幸福感と後悔と期待が暴れ出して、今にも
泣いてしまいそうだった。
「…
震える手先を、ルートヴィッヒが握る。
暖かい、広い手が私の手を包んだ。ゆっくり顔を上げると、彼は真剣そのものの顔つきで私を見ている。

どうしようどうしよう、頭が考えるのはそんなことばかりだった。
どうしようなんて頭が思ってても解決策がからっきし出てこない。崖の縁に立たされて飛ぶか自力で降りるかしろといわれたときの
先の見えなさ加減じゃないのか、そんな経験ないけど!!


「あ、」
乾いた喉からやっと出た一文字は、ダークブルーの中に溶け込んでいく。
綺麗な瞳だった。眉までかかった前髪が大人びた彼の顔を些か幼くしていると、こんなに近付いて始めて分かった。
端正なパーツ、シャープな顔と鼻のラインにどくどくと心臓を荒げる。

近い、と思った頃にはもう熱っぽい唇を押し付けられていた。
びりびりと体中に弱い電流が走ったような感覚に陥って、思わずこわばってしまう。
ほんの一瞬のキスに、唇を離されてから私は目を見開いてルートヴィッヒを見上げた。


「…怖いか?」
「……………っ」

ぎゅっと目を瞑って首を横に振る。それでも我慢しているととったルートヴィッヒは、握った手の親指で私の手の甲を一擦りして深呼吸し、「やっぱりやめるか」と言う。

握られた手を強く握り返して、さっきよりも強く大きく首を横に振った。
すこし驚いたルートヴィッヒが顔を上げる。


「やめないで」

もう何が何だか分からなかった。手探りの行為が相手を苦しめてしまうかもしれないという事もよく分かっていた。
でも今、彼がこうして自分と向き合ってくれていることが嬉しくて、私は彼を引き止めてしまう。
先のことは知識としてしか頭にはないし、知識どおりに行為を終わらせられるか自信がない。

、」

「お願い」


天井についた照明がひどく明るく感じた。私自身の息遣いだけが聞こえるほどの静寂が空気を震わせることを拒絶する。
モーションが、読めない。この先は、彼次第。


「すまない、先に謝っておく」
「…え」
私の手を握っていたルートヴィッヒの手が頬へ上ってきた。
「…………………できるだけ、…や、優しく、するが」


青が金に、再び埋もれて。
それからしばらくして、シーツは波打った。




110723