「べつに気にしなくてもいいよ」

項垂れていた私の頭に手を乗せて、なだめるように優しく声をかけたフランシスのその言葉は、あの子が目の前で制裁されたあと私にかけた言葉だ。
一番悲しくて悔しくて寂しいのは彼のはずなのに私のほうが泣いていた。彼は自分にそれを言えばよかったのに、涙を流してしまった
私のほうへ感情を流した。そのころから自分を殺すのが上手かったのだ。

硝煙や泥で薄汚れた軍服に刻まれた彼女の焼けたにおいと記憶。
曲げられない事実を嘆いても仕方が無いのだと、死ぬ前に彼女が言ったのを真に受けすぎたフランシスは泣くことをしなかった。


唯一の光だった彼女がいなくなってからぽっかりと開いたフランシスの心の穴には今、いつも誰かが埋まっている。
誰かを隣においておくだけで満足している。節操なしに、そう、私のような誰かの女だったとしても。
私も誰も彼女に代われないのは分かっていても、穴からもっといろんなものが零れ落ちる前になにかで埋め込まないといけない。
穴に埋まったとしてもフランシスが、安堵したことで何かを喋ってくれるわけでも、涙を流して『悲しい』と洩らしてくれるわけでもない。


(たぶん、そこなんだとおもう)

それが不満で私はフランシスを好きだとは言えないのだ。
私にはできない、言えない、塞げない。両手を広げて待っていてもフランシスにとっての永遠の安寧はここにはないから。
代われないのだ、何も誰も。


それからフランシスに優しい言葉をかけられないまま月日は流れて、だいぶ磨耗した神経に慣れたフランシスはよく笑うようになった。
仲の悪いアーサーとかいうのをからかいに行ったり、どこかへピアノを聴きに行ったり、股間に薔薇を付けて帰って来たりした。
その空回りする虚構の回復の過程の中で出会ったのが「君」と「わたし」。
笑顔が太陽みたいな彼は私にないものをたくさんもっていて、まぶしかったし綺麗だった。
いつのまにか空いていた自分自身の穴に埋めたいと思うようになってしまった。

それが間違いだったのだ




「待ちい」

手首を強くつかまれて急停止し、引かれるように手を引いた主を見る。いつものような優しい笑顔はなく、こわばった緊張気味の顔だけが私と向かい合っていた。
「君」はいままで私が追憶に浸っていたこともすべて見透かしているかのような雰囲気を醸している。

「なに?」
「何無言で出かけようとしとんねん。勝手にどっか行くなって言ってるやろ?」
「すぐ帰ってくるよ」
「それ言ってすぐに帰って来たためしないやん」
「友達だって大切にしたいもん」

「だって、なんていうとるけど俺を大切にしたことあったか?」


それで分かった。
このひと最初から私のこと知ってたんだ。
どこに気持ちがあるのかも、なにを見ているのかも、全部お見通しで私の隣に居たのだと。

手首を掴む「君」の指の力が強まる。まるで私を無理矢理ここに留まらせるかのように。
何もいえなくて困惑する私の瞳をじっと見つめ続ける碧眼には、「君」なり強さがにじみ出ている。君自身もフランシスのように酷く
苦しい経験もあったのだろうと感じられるほどに強い眼差しをむけられた。
そう、私は今君の目を見て初めてそう感じているように、君の過去も何も知らなかった。


自分が報われないからといって誰かを傷つけたりないがしろにしたりなんてしていいわけないのだと、分かっていたはずなのに。
分かっていても自分の理由を正当化して勝手な思いだけを野放しにしていた。
酷くて醜いのは自分自身なのだと、碧眼は、語る。


「お前はあいつが好きだったんやろ」


嫌悪感と罪悪感が一気に押し寄せて、涙腺が緩みそうになる。
そう、私は、好きだったのだ、あの人を。
本人がこちらを向けないのを分かってはいても、それを心から認めることができなかった。

君の手の中で脱力した私の腕。肩の力が抜けて足がバランスを崩し、そのばに崩れるように落ちる。
フローリングに膝をつく前に「君」が胸元へ滑り込んで私を抱きかかえた。たくましくてあたたかい、強い抱擁だとその時初めて感じた。

「……………っう」

ぼろりぼろり、と大粒の涙が乾いた頬を滑り落ちた。久しぶりに顕著に感情をあらわにしたせいで、感情が上手く抑えきれない。
声を出すことができないほどにぐるぐるした愛とかごめんなさいとか後悔が私を襲って、もう何が何だか分からない。
君は何も言わずにただ無言で私を抱きとめている。

もうどこにもいけないし何もできないのだと、私は思った。どこまであがいても私はあの人に縛られ続けるし、あの人は彼女に縛られ続けているとようやく分かったから。一生平行線上に立って歩き続けるのだと悟ったから。

嗚咽を続ける私の背中を優しくさする君は、さする手と同じように優しく喋り始めた。


「ずうっとな。わかっとったんよ?せやから俺かて『手ぇ引っ込めろ』って威嚇したんやけど挑発的に返事が返ってくるもんやから…」
「……どういう、こと?」

乱れる呼吸の中でようやく聞いたことに対して君は困ったように笑って言う。

「お前の見えないところに所有印つけとったんよ。あいつには分かる場所でな」
そうやって独占したつもりでいたんやけど、お前はあいつんとこ行くやろ?そんでもってそれを見つけたら毎回隣におんなじもんつけて返してくる。まるで威嚇し合うみたいに同じこと繰り返しとるんやでおれとあいつ。

喋る声はだんだんと悲しく優しいものになる。

「あいつもあいつで抜け出せないけど、少しずつはこっち向いてきてるって証拠なんとちゃうの?」
「…、………………」
「怖いんと違う?またなくなるのが。せやからお前にも本気で手ぇ出せないんやと思うで」

見上げた碧眼は目を細めて笑う。
自分にさようならを告げて、はやくあっちに伝えに行っておいでと言うかのように穏やかだった。
「また会えるんだったら、今度は一から俺のこと見初めてほしいなあ」
いい人を裏切ることがどれだけ恥ずかしくて幼稚でわがままなことか今更感じてしまう。わなわなと唇を震わせてしゃくりあげ始めた私をもう一度抱きしめた君はぽんぽんと頭を撫でてくれた。




「ごめん、なさい」
「ええよ。でもな、こういうことしてあげられるの、今日までやねん」





沈黙の遠吠えは今日で途絶える。



110123
終わりです