いい加減日が暮れるよ、と困ったように笑う声が私の頬を撫でて目が覚めた。

ベッドの中ですん、と鼻をすすって寝返りを打つと、夕刊を取ってきた様子のフランシスがそれを片手に私を見ていた。
おはようとか起きてとか挨拶は無しだったけれど、薄い綺麗な唇がくすぐるようなキスをしてくる。
リップノイズを派手に聞かすのが彼は好きだった。そんな彼の嗜好が私は好きだった。


「ねえいいの?」
動く気配のない私に心配そうに声を出す。今出て行くよといわんばかりに不満そうに鼻をならせば少し残念そうに「服はあっち」と指を差す。
どっちだよ。

「なんであんな遠くに投げ捨てるの」
「邪魔だろ?」
「邪魔だけどさ」


今まで獣みたいにお互いを求め合ったのがまるわかりで、少し生々しく気持ちが悪い。

そう正直に言っても言わなくても彼は笑って流すだろう。シャツを羽織ってボタンをしめる。
夕刊をテーブルに置いたフランシスは私の上着を拾ってひとはらいすると、私が着やすいように襟元を広げてくれる。
すらっとした節くれだった指が持った私の上着はなんとなく官能的だ。ましてや腕を、入れるなんて。

フランシスの胸元に寄るようにして回り込み上着を着ると、「そういえばシャワーは?」と耳元で彼が尋ねてきた。
首を横に振る。「いいよ、家に帰ってもきっと台所だからお風呂に直行する」

そう。えらく淡白に返された言葉に押されたように玄関へ歩いて行くと、昼間にこの家に飛び込んで散乱していたはずの私の靴が
綺麗に整頓されていた。どこまでも配慮されているこの空間は、私が今から帰るところには無い。


「じゃあまた」
「ん」


大きな掌はひらひらと私の姿を見送っていた。








「ただいま」
「おかえり!今日どこ行ってたん?」
「友達と買い物だよ」
「ええ?そのわりに荷物少ないやん?」
「私は金欠〜。親分がもっと頑張ってくれればなー」
「う…!それ禁句や!」
「ふふ」


バッグをソファに置いてキッチンに立つ君に笑いかけた。いつもとかわらない、君のこどものような笑顔はとても綺麗だ。
その笑顔を見るたびに私が隠すフランシスとの関係を断ち切りたいと思ってしまう。
(…腐ってる)
元気にフライパンをまわす君の顔を見てももう罪悪感を感じられない。
私は「お風呂入ってくるね」と言ってろくに目も見ないまま脱衣所へ駆け込んだ。


それからお風呂から上がって君が作った美味しい夕ご飯を食べて、一緒にテレビをみながら食器を洗った。
台所で後ろから腕を回されたときも、フランシスから感じられる甘さや抱擁感を味わうことはなくて。ああ、これはただ「好き」っていう、それ以上でもそれ以下でもない心なんだと確信する。

「なぁ」

さっきまでの台所でのやりとりから感じた自分の回想をさえぎるように口が入った。君の少し苦しそうな声。
「考え事してる暇、あるん…っ?」
熱い吐息の中で一種のプレイみたいにじりじりとせめるような口調。腕をつかまれて逃げ場を失い、そのまま激しく揺さぶられる。
小さく息を洩らしながら首を一生懸命横に振っても、君はやめてくれなかった。



「あ…ん」
「顔みえへんよ。そっち向かんといて」
「…………っ、…、…!」
「…、…好き…?」

「好きじゃなかった、…こと、なんて  ある、?」


「わからへん」


暗闇で見えた汗ばんだ顔はまるで泣いているみたいだった。


『わからへん』が頭の中で反芻される。今までまっすぐで綺麗な言葉しか使ってこなかった君がした唯一の反抗だ、と今思い知る。
恐ろしかった。ばれているんじゃないかとも思った。でもそれでもいい、と思いながら声を洩らして熱を受け止めて、腐っている私は
目を閉じる。

昔から付き合いの長かったフランシスと違うものを持っていたのは君のほうで、それに惹かれたのは虫みたいな私。
あの日フランシスのすべてだった彼女が灰になることがなければ、わたしと君が剥離していくことはなかったと責任逃れをする。
いまフランシスは私と身体だけの関係を持っていて、君はそれを知らない。
犯行は随分と昔から行われていることも、ぜんぶ。


君との関係を終わらせたいわけじゃないし、終わらせるつもりも無い。
あの日からうつろになったフランシスの瞳に色彩をはめ込むことが出来るのは私だけだと過信してやまない。だから私は君との関係を保ちながらフランシスとの関係を続けている、たったそれだけのことなのに。





「…ん………」


「…顔が」

見えへんよって

「ごめん」



虫は君の方にくっついたつもりだったけれどね
熱は君のものなんだけれどね
こびりついて離れないのはあのひとの声なんだ







110109
続きます