真っ黒い世界、外界から遮断された光は私を照らすことは無い。右、左、上、下、何処も彼処も黒で塗りつぶされている。どうやら黄泉の国らしい。
黄泉の国っていうのはもっとこう、小さな妖精が居て葡萄とかりんごとか両手にもてなししてくれるようなところかと思っていた。だけど私が来たのは何一つ理想と一致しない世界で、大好きな漫画がアニメ化したのはいいけど作画崩壊したような失望感。どうすればいいのか分からず、取り敢えず足を一歩前に踏み出してみた。
ぬめりを帯びた闇の中に片足は沈んでいく。歩行している感覚は皆無だけど、ひんやりとした空気が肌を滑って吹き抜けていくのが分かる。心地良いとはいえない闇の中へ沈んでいく最中ずっと消毒剤のようなにおいがして、あまりいい気分ではなかった。だけど自分の意思とは関係なく足は進んでいく。ぬめる闇が腿の高さまで侵食してくると恐怖が湧き出してきて、足を止めようと躍起になる私。だけど止まらなくて、衣服にも染み込んできて、生ぬるい闇が、黒が、私を飲み込んでいく。
目を瞑ってその黒に飲み込まれる。息はできた。苦しくない。反射で丸まった私の身体、浮かんでいる感覚のまましばらくして足先に床らしきものが触れた。びくりと身体を震わせ、
おそるおそる両足の裏を地に付けた。ゆっくりと頭を覆っていた腕を下ろし、目を開ける。「あ」と声を出したつもりだったが声は出なかった。
驚きたかった、だって目の前にアーサーが居たから。
アーサーはゆっくりと手を差し伸べてきた。無表情で、だけど口元だけ笑ってる。
光を帯びないその瞳に強い畏怖を覚えて、思わず手をとることを躊躇してしまった。私が何もしないままで居ると、彼の口が酷くゆたりと開き始めた。何か喋るのだろうか。
声、は、出ていない。
ただ彼が口にした言葉ははっきりと私の三半規管に届いていた。
死ねと、言われた。
差し伸べられていた手はいつの間にか私の首へと巻きつけられていて、指が肉を握り潰す音が鮮明に聞こえてくる。
私は苦しくなくて、息さえ可能で、涙も出ない。
だってもう、死んじゃってるから。
首を絞められた挙句持ち上げられているのに、首が折れる気配も無い。私は無表情で私を締め続けるアーサーを見下ろした。
私と目が合ったアーサーはゆっくりと口角を持ち上げて笑った。どうして、何故。
何故あなたは、私を殺そうとしているの。
やっぱり私は誰にとっても必要の無いものなの。やっぱり私は誰にとっても邪魔なだけのものなの。
壁なの。鎖なの。枷なの。
泣きたかった涙腺が緩んで涙が零れればいいと思ったのに、私は泣けなかった。それなのに笑っていたアーサーがその顔のまま、涙を零しているああ分かったこれは
「夢だ」
滑らかに発せられた声。さっきまで出そうと思っていても出せなかったから、いきなり出てきた自分の声にびくりと身体を震わせた。
はっと気付くと首を絞めていたアーサーは消えて、その代わりに真っ白い天井が私を見下ろしている。ん?ん?状況を理解できない。
目玉だけを運動させて周りの景色を確認する。ちらり、と視界の端で踊った布切れ、カーテンだろうか。窓際に誰か居る。アングルを少し下げてみると、窓の縁に手をかけたアーサーが、鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしてこちらを見ていた。驚いているのはこっちだと言わんばかりに目を見開いてリアクションをとってみる。
「おはよう」
「こんにちは、だな」
「ここどこ?」
「病院」
「……という名の天国」
「じゃないから安心しろ」
「…………………」
マジか。
ゆったりと身体を起こすと、体中のあらゆる細胞達が大絶叫を伴い、脳味噌がぴちんと音を立てて弾け飛んだ。ような気がした。次いで、激痛「いっづうううううううう!!」
激痛が宇宙痛に進化。大声を出して頭蓋骨に響かせたら泣きっ面に蜂だった。ばかー。
アーサーは私の所まで駆け寄ってきて肩を支えてくれた。私が飛び降りる前みたいに、強く握って揺さぶることはしない。
背筋や内臓が軋みながら悲鳴を上げて痛みを訴えているけれど、折角彼が私を支えてくれているので座った状態を維持しようと思う。
「……良かったよ、下が植木で」
「…………………死にそびれた」
「その代わり生きてる良さが分かったろ?」
「こんなに痛いのに良さ?」
「それは自業自得」
右腕に走る鈍痛と首に掛かる包帯が骨折していることを物語る。強く打ち付けた肢体も損傷が多々あり、枝諸々に引っ掛けたのか肉が裂けている感覚もあった。
だけどそれは自分に腕がついていること、足がついていること、肉を皮が覆っていることを実感させてくれる。
そう、私は、生きていた。
「……おっどろきー」
「馬鹿だろお前。凄い馬鹿だろ。一生懸命馬鹿だろ」
「………」
「飛ぶ必要なんて無かったのに」
「………………」
「俺も悪かった。止めたくても止められなかったから」
分かるか?偽善じゃない。同情でもない。俺はお前を、俺個人として助けたかったんだ。
そう言うアーサーの手には真新しい包帯が握られていた。
私の頭の包帯を付け替える気だったのだろうか。手の中でころころと転がっている。
憂いの情に揺らぐアーサーの瞳は、私の何らかの返事を待ち続けた。すん、と鼻で息を吸い込むと、夢の中で嗅いだ消毒剤のにおいが肺を満たした。
「…看病してくれるの?」
「守れなかったからな。せめて、それだけでも」
アーサーもすんと鼻を鳴らして息を吸い込んだ。
「が何を見ていたか俺はわからなかった。だけど分かったのは俺なんかがに残せるものは何も無かったってこと。あそこで俺が現れればお前は飛ばないと過信してたんだ」
揺らぐグリーンが私を映す。瞳の先に後悔と期待を浮かべて。
「でもお前は躊躇うことなく飛んだ」
右腕を覆う包帯に優しく触れて、なぞる。
「俺はお前が好きなんだよ、。お前は何にも思ってないかもしれない、だけど俺がお前の世界を幸せにしてやりたい」
「…………くさい」
「分かってる」
辛辣な言葉にも冷静に対処するアーサー。つくづく私のひねくれた精神には辟易する。
アーサーは私の了承を得ない癖にいきなり抱きついて来た。酷く優しく、包み込むように。
はあ、と言葉に仕切れない気持ちを吐き出すような、深い溜息をついて頬を包帯だらけの右肩に擦り付けて。
まだ軋むような痛みが走り続けているけれど、拒もうという気は起きなかった。寧ろ私も頭をアーサーの首元に埋めて涙腺が緩むのを待った。
温かい。人のぬくもりに触れるのは、いつぶりだろう。
「あっ、そうだそういえばお前これ」
アーサーはポケットから私があげた十字架のネックレスを取り出して、突き出してきた。
誰から貰ったか思い出せなくて、持ってはいたけど一度もつけることのなかったそれは、彼の手の中で鈍く光っている。
「……うん、いや私生きてるけどあげるよ」
「いやこれ、俺がにあげたやつ」
「……………………」マジか。
困ったように笑ったアーサーはごそごそとネックレスを自分のポケットにしまいなおした。
やっぱり俺、お前にとっちゃあ何でもないもんなんだな。苦しそうに笑ってそう言ったけど、感慨が湧かないのは私が青空へ飛び立ったとき何らかの感情が欠如したから。
元から欠如していたかも知れないけど。
「これは俺が、お前に見てもらえるようになったらもう一回プレゼントする」
だからそれまで死ぬなよ、なんて冗談めいて私に釘を刺した。
「………ねえアーサー」
「ん?」
「守れなかった分の、あとは」私を守ってくれる?
「………望むなら、喜んで」
私は彼にポケットの中のネックレスを、今すぐプレゼントするように言った。