「忙しいやつだな」
「会社で失敗ばっかしだからね」
「やっていけばなれる」
「うん、ま、そうだといい」


世話しなく書類を鞄に詰め込んだは俺に「口紅。取って、小さい方」と顎で指図してきた。
あまりにも急かしたような口調だったので何か言い返すわけでもなく、ただ流れるようなの様子をぼんやりと眺めていた。小さな鞄の横にあるキャリーケースが意味するのは、の仕事上の長期の別れ。
決別でもないものだからこその余裕だが、いざいなくなると空っぽになるから寂しい。
髪の毛を綺麗にまとめたうなじが流れる後ろ姿に抱擁したくなってしまった。

右手にキャリーケース、左手に小さな鞄。
華奢めな体つきで外を歩けるのか、と危惧したがそれも杞憂で終わる。空港まではタクシーだそうだ。
靴の爪先をとんとんとついたはピンと背筋を伸ばして俺に敬礼をした。


「隊長!行ってくるであります!」
「ふむ、気を付けろ。」
結った柔らかな髪の毛が小さく揺れて、の目が細められる。
「…寂しい?」
「…寂しい?じゃなくて、寂しい。そうだろ」
「もう、ばか」

するりとうでの隙間を通ってきた手が俺の背中でつながる。
ふんわりと香った石鹸の匂い、次いでやわらかな感触。抱き締め返そうとして腕を動かすと、猫が牙をむいて威嚇するように素早い動きでそれを拒んだ。黒いヒールが鋭利に鳴く。

「どうして」
「今さわられたら、きっと泣くから」
「二週間も我慢するのか?」
「たぶんそのほうが今より素敵な気持ちになれる」

「抱きついておきながら。生殺しか」
「ふふ」
すり、と頬が俺の服の上を滑った。いずれ寂しくなる胸元の温度差を想像して少し怖くなる。
「頑張るから。連絡も、するから」
「ああ」
「最後になんか、ある?」
「…手を、握って欲しい」

うん、と頷いたは小さな細い指を俺の武骨な手に絡ませて笑った。いつもより大人びた笑顔に思わず目を見開くと、ためらいがちに握りあった手を持ち上げて、俺の手首にある銀の腕時計に優しく口づけた。あたたかい感触が皮膚に伝わる気がした。


「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」


静かになった玄関先にたたずんで、押し黙る。

俯いた俺の腕にある腕時計は、が口づけたときから時を止めていたことに気付いたからだ。



もう胸元も手のひらも、温度差を感じていた。







「あ、もしもし」
「もしもし」
「もうすぐつくよ」
「ああ」
「…寂しかった?」
「寂しかった?じゃなくて、寂しかった。そうだろ」
ばか、とは返ってこなかったが、代わりに電話越しに小さな笑い声が響いた。つられて自分の口角も上がっていることに気付く。
暫し心地のよい沈黙が続くと、部屋にインターホンが鳴り響いた。電話越しにも同じ音がして、ああ帰って来たなと余計に心を弾ませる。携帯電話を握りしめたまま立ち上がってテーブルの足に踵をぶつけながら玄関へ向かうと、もうが見えた気がした。ためらうこと無くドアノブをひねり、開ける。

なにも変わらない、がいた。
「…ただいま」「…お帰り」

出発するときと逆に、自分が彼女を抱き寄せた。少し細くなっただろうか。
髪の毛をかき分けて見つけた白い肌を手のひらで覆うと、以前と変わらないあたたかさが皮膚に伝わってくる。寂しかった。さっきの電話で言ってしまえば、恥ずかしくなかったかもしれない。そう考えつつも、二週間ぶりの感触に浸る。

「会いたかった」「ああ」「ルートは?」「もちろん、会いたかった」

「うわ、素直だ」「そういうこと言うか?」

意地悪な笑みを浮かべてやると、はばつが悪そうに、しかし嬉しそうに笑った。出発した日を思い出すように俺の手の指を絡め、持ち上げて腕時計に口づけた。

「…、そんな」



まさかとは思って構わずにしておいたが、


あの日から時を止めていた腕時計が、再び時間を刻み始めるなど。






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リクエスト 「腕時計」