世界は、
ここのところ雨ばかりだ。
庭に出て木々を眺めることも、洗濯物を干すこともできない日が続くので気が滅入る。
それに湿気が多いので、髪の毛も調子に乗ってあちらこちらに跳ねてしまうのが嫌だ。
部屋干しで済ませた衣服を畳んだけど、すぐ近くにあるたんすに片付ける気力が起きない。
隅っこのほうに押しやって、障子戸をあけた。
多分もうお昼なんじゃないだろうか。
朝ごはんを、食べていなかった。
私の向かいの部屋にある日本さんの部屋へ目を向けるけれど、相変わらずだんまりした障子戸がこっちを見ているだけだった。
ゆっくり立ち上がって、立ちくらみがして、よろけて、そのまま障子戸まで歩き出す。
頭から障子紙に突っ込みそうになりながらつっかかって、木の縁を叩いた。
「日本さん」
お昼ですよ。ご飯ですよう。
はい、今行きます。
これは昔のやり取りだった。
今はそんな返事さえ返ってこない。返って来るのは、私の声が大きかった分だけの静けさだった。
私とさほど変わらない背丈なのに意外としっかりした体だったりするから、障子戸をあけようと思って引っ張ったら向こう側からも日本さんが引っ張ってて転びそうになったとか、そんなこともある。
けれど今は違う。
開ける事も許されなければ中に入ることも許してくれなかった。
ましてや返事もなくなった今、彼は中で何をどうしているのか私は知らない。
「日本さん、日本さん。昨日お買い物に行ったら、美味しそうな鮭が売ってたんですよう。塩じゃけにしましたから、食べてくださいよう」
返事はない。
「洗濯物はないんですか?洗濯機、回してしまいますからあるなら出してくださいね」
たった一枚の障子で隔たれた私たちの交信は、今までと違って私だけが気持ちを伝える一方通行になってしまった。
いつも一緒に居たのに。
無理に開けてあげても良かった。だけどそれができないのは、障子戸という物理的な隔たりのほかにもう一枚、隔たりがあったから。
精神面での。
あの日何かを恐れた日本さんのこと、気付いて上げられなかった。私はいつもみたいに障子戸をあけて「おはようございます」と言ってくれるんだと思ってばかりいた。
支え合うだけの間柄の私たちは隔たりができてしまえば関係など脆いものだった。
静かに物言わぬ障子戸の向こうからはもう、何も聞こえてこない。
「………日本さん…。本田さん、本田菊さん。出てきてくださいよ」
悲痛な願いさえも聞いてくれなくて。
「私嫌です、ずっとこのままなんて嫌です」
苦しかった。怖かった。居なくなってほしくなかった。
「好きです、菊さん。おねがいです、囲わないで」
自分のまわりを何かで埋めないで。隔たりを作らないで。ひとりで壁を築かないで。
こんなにも近いのに、こんなにも傍に居るのに、障子戸一枚で自分だけの世界を作ってしまわないで。
床を見る目に涙が滲んだ。声が震えて何も言えなくなる。いままでずっと傍に居た分、伝えなくとも分かっているだろうと思い込んでいたつけが回ったのだ。
これまでちゃんと見て上げられなかった彼ともう一度向き合いたい。
「菊さん」
細い声がもう一度彼の名前を呼んだとき、その障子戸は力無く開かれた。それと同時に私が顔を上げると溜まっていた涙が零れ落ちて床を濡らす。
涙目に映っていた彼の顔は、疲弊ばかりだった。
今にも折れそうな身体が座り込んだ私を見下ろしている。
「菊さん」
もう一度名前を呼んだ。
「はい」
弱い身体に力のある声だった。
「……………」
「……………」
赤ん坊のように手を伸ばした。かけたい言葉が見つからなかった代わりに態度で表そうと思ったら、無意識に手が出てしまった。ぬくもりを確かめるように、存在を確かめるように、その肩に縋りつく。
しゃがみこんだ日本さんの肩にするりと腕を滑り込ませ、肘を曲げて自分に密着させる。
心臓はあった。熱もあった。
声も。
「…………っ!!」
「ごめんなさい。ごめんなさい、……あなたが」
ひとりで私にばかり気を遣っていたのは知っていました
「だけど私もやらなければならないことがあって」
「………なに、を」
指差された部屋の中を見てみる。私は言葉を失った。
「これ、来週までに仕上げないと間に合わなかったところなんですよ」
疲弊しきった顔がにっこりえと笑顔を作った。
え。え。聞いてない。なんで、春コミ?
今まで私がやって来たことを全部無駄にするようなその結末に、わなわなと肩が震える。てっきりまた鎖国みたいなことしてるんじゃないかって思って危惧した私の思いは何処に行くんだろう。
そう考えると、腹が立ってきた。ぐるぐると回る血液の温度が急上昇しているのがわかる。
日本さんをきっと睨みつけるけど、もう朦朧としていて焦点さえ合っていない。今日の今日まで原稿に根を詰めていたなんてだれが想像しただろうか。
「菊さん」
「はい」
「もう一生出てこないで下さい」
「はい?」
愉快に壊れた