Monde,




泣きたかった。

怒りとか悲しみとか、感情に任せてただ涙を流したかっただけだった。
だけどいろんな感情が交じり合った気持ちではなかなか思うように泣けないことが分かって、思わず店を飛び出してきたことを少し後悔する。

思いのすれ違いが目立ってきた頃だったから、これを機に連絡を途絶えさせることだってできるだろう。だけどそれができないのは、寄る辺がなくて困る自分自身が可愛くてしょうがないからだ。
掴んで出てきた鞄の中にある携帯電話に触れないように、何を探すでもなく漁る。
手が乱雑に鞄の中を漁るうちに、気持ちが落ち着いてきたのかぼろぼろと涙が頬を伝って流れてきた。
今まであんなに思いあっていたのにどうして、といわんばかりに眉間が寄る。
嗚咽が止まらなくなって、私は鞄の中を漁る目的を「ハンカチを探す」という目的に変更した。
笑い合って、愛し合って、触れ合っていた時間を忌まわしく思う。男女問わず、気持ちを寄せていた人間と決別する時というのはそういう気持ちになるのが普通なのかもしれないけれど。


(最悪だ)


尻切れ蜻蛉。
曖昧な別れ方など自分の性格上許せないはずだ。
(でも)
どうしても顔を、向けたくない。
どこのお店の路地裏かももうわからないまま、壁に背をつけて俯いた。
……ハンカチ、無い。


「大丈夫?」


薄暗い闇の中でそう声がした。いきなりのことにびっくりして肩を揺すり、声がしたほうを振り返る。
そこにはゆるいウェーブがかかった髪の毛を長めに垂らした、金髪の髭男が私にハンカチを差し出しながら立っていた。
「どうして泣いてるの?」
男らしくない、薄い花柄のハンカチ。持っている指は長く節くれだっていて、綺麗だ。
私は誰に何を言われても反応するつもりはなかったけれど、ハンカチを差し出されたことに腹が立って男の顔をみあげた。

綺麗な、整った顔立ち。金髪の垂れた髪が少し顔にかかって色っぽい。
緩く微笑んだ口元は全てを受け入れようとする寛容ささえ感じられる。

でも私は涙を流すことをやめなかった。腹を立てることをやめなかった。
彼の方にしっかり向き直ってそのハンカチを取り上げ、地面へ叩き付ける。びっくりしたような顔でハンカチを追いかけるその彼に、冷たい声で言い放った。


「私を泣かせた男に無かったものが自分にあるなんて、そんな自惚れたこと考えないで」


それから早足で歩いてその場を去ったけれど、追いかけてくる様子は無かった。
これでよかったのだ。





*

「おっ」

苦虫を噛んだ挙句それを飲み込まされてはい次二匹目ね、といわんばかりの顔をしてやった。
コーヒーを運んでいる最中だったその男は、一昨日の夜寄りかかっていた壁のお店の店員だったらしい。というか薄暗かったのでどこがどこだか分からなかった私が、今なんの悪戯なのか腹の立つ男が働くお店に客として入り込んでいた。
意地悪すぎる、と額に手をあてて仰々しく溜息をついた。


「どうしたの。ハンカチ、ほしくなった?」
「今日はハンカチでなくてコーヒーをもらいに来たんですけど」
「なんだよ、つれないね。コーヒーは有料だけど俺のハンカチは無料なんだよ?」
「そのあとの展開を考えるとお金以上の何かをささげなきゃいけないような気がしてなりません」


はは、と笑った髭は、コーヒーを他の店員に押し付けて私の手を掴み、テラスの方に誘ってきた。
ここ店長のお気に入りだからあんまり人座れないんだよ、なんていたずらにウインクした彼にはノーリアクションで木の椅子に座った。

テラスからは下町が小さく広く見渡せる。森林の緑やレンガの赤、建物の白が映えてとても綺麗な眺めだ。
ほう、と溜息をつきながらその眺めに見入っていると、髭はいつのまにか消えていた。
あのあと彼は私の背中を見ながら何を思っただろう。不愉快?嫌悪?それとも。


「おまたせ」
「待ってないけど」

相変わらず冷たいんだね。なんていいながら私にエスプレッソを差し出してきた。見上げると、「サービスだよ」と目を細めて笑った彼。何も反応を示さずエスプレッソに目を落とした。
そしてそっとしておいてくれるのかとおもったら、向かいの椅子に堂々を座る様。仕事中なのでは?と首を傾げると、彼は笑って「いーのいーの」と自分用のエスプレッソを口に含む。

わけわかんない。


「一昨日はごめんね」
「…別に、いいです。私も少しやりすぎました」
「んーん。俺ちょっとささくれむいちゃったよね」
「そうですね。………なんで私のこと気に留めてくれたんですか?」
「女の子が泣いてたから」

女だったら誰でもいいいのか、と思ったらまた腹が立った。だけどそんなことに腹を立ててるなんてなんだか嫉妬みたいだったから、何も言わずに湯気を立てるコップに口付けて眺めに気をやった。

「でも日も置いたし、ちょっと落ち着いたでしょ?」
「まあ。…なんで詮索してくるんですか」
「あんまりにもね、顔が」
切なそうだったから。
「……」



あの日薄暗い中でも分かった、悲しさに歪んでいた顔。そこまで表情を捉えるのが上手いなんて、思いもしなかった。だてに見ているわけではないのも、彼の私に対する言葉のかけかたや態度で分かる。悔しいが、彼が女性の扱いは上手いことは十分に感じられる。

エスプレッソを飲んだのに、喉は酷く渇いている感覚に捉われる。
腹部に渦巻く不快感の理由を知りたかった。あたたかなテラスにそよぐ春風が生ぬるい。


暫く会話は無かった。だけど心地の悪い沈黙は訪れず、ただ相手の存在を目の端で認識するだけの時間になる。酷い喉の渇きは相変わらずだが、彼が居ることで一昨日の夜のような気持ちになることは無かった。

エスプレッソはなくなって、私はどうしたらいいかわからなくなって、彼を見た。

私のすぐ近くで頬杖をついて笑って「気が済んだ?」と首を傾げるその顔は、とても優しい表情だった。
一瞬自分が目を細めた錯覚に捉われる。それはきっと、彼が美しかったから。
悔しい感情も、渦巻くお腹も、テラスに居るのに酷く眩しく感じるのも、ぜんぶ、全部彼が私の目の前に居るから。

「…美味しかった?」
「…………」
立ち上がった。くるりと背を向けてテラスから店内に入ろうと、ガラス窓につく銀のドアノブを握り締めた。ひやりとした鉄の温度が私の熱くなっていた掌の熱を改めて思い出させる。
ガラスにうっすらと映った彼の顔。私の方を向いて、きれいに笑っていた。

「また来てね」








かがやいていた